そこは「帰らずの森」(6)
17、
真夜中の満月の下を、ジェハとクローヴィスは足音もなく歩いた。やがて、二人は祠に向かうべく、『瘴気の森』に足を踏みいれた。
クローヴィスが呪文を唱えれば、夜の濃い霧が道を開ける。
その道をしばらく並んで歩いて、クローヴィスが言った。
「君は優しいな」
ジェハはうろたえてそっぽを向いた。
「よせよ」
クローヴィスは一歩下がり、ジェハの全身を背後から見た。
「傭兵らしくない」
ジェハは首を捻って、背後のクローヴィスに抗議した。
「そんなことはない」
クローヴィスはその抗議には応じず、質問を続ける。
「何で傭兵なんかになったんだ」
ジェハは前を向いて、即座に答えた。
「それしか能がなかった」
クローヴィスはジェハの背後についたまま尋ねる。
「最初に人を殺すのは、恐くなかったか」
ジェハは鼻で笑った。
「10歳でもうやってる」
クローヴィスはちょっと返事ができないようだった。ジェハは乾いた笑い声を立てて、吐き捨てるように自分の過去を語った。
見世物小屋の猛獣を殺し、興行主に犯されて男娼に売られかかった過去……。
ジェハは身を守るために興行主を殺して、売上を奪って逃げたのだった。
初めて剣を買った金は、そのときに血で濡れた金袋から出たものだった。
ジェハも、振り向きもせずに尋ねた。
「アンタは?」
クローヴィスも、乾いた笑い声を立てた。
「最初に請け負ったのが、暗殺の仕事だった。金をくれた相手に言われるままに、夜道で人を待ち伏せて殺した。16歳のときだった。師匠のもとを離れて一人で生きるためには、仕方がなかった。仕事が終わってから、泣いたよ。そのまま死んでしまおうかと思うくらい泣いて、今まで生きてる」
悲しい話のはずなのに、クローヴィスの口調はいつものとおり眠たげであった。
やがて祠にたどりついた二人は、中に入った。
地下水脈の入り口は見当がついている。あの石の祭壇だ。
二人が乗った祭壇はあっという間に床下に沈んだ。
身体はあっという間に水の中へ沈み、強い水流に流される。
凄まじい流れによって身体が弄ばれるが、溺れそうな気は全くしなかった。クローヴィスの当て推量は、どうやら的を射ていたようである。
やがて、ジェハとクローヴィスは洞窟の中の川を流されていた。乳白色の鍾乳洞を流れる、澄んだ冷たい川である。
川は何度も蛇行し、二人の身体を地底湖のほとりへ投げ出した。細かく、白い砂の堆積した岸辺である。
地底湖は、青白く光っていた。何がどこから照らしているのか分からない。
いや、湖そのものが光っていた。ただし、地底湖の放つ光では、湖の端は分からなかった。湖の端は薄い闇に覆われていた。端がその薄い闇に隠されることで、地底湖は無限の広さを持つようにも見えた。
クローヴィスが言った。
「こんなところがあるとは……グルガンでも考えが及ばなかったのは仕方ないかな」
ジェハに振り向いてみせる。
「『深き水底の王』は、瘴気の沼じゃなく、どうやらここにいるみたいだ」
ジェハに、答える言葉はなかった。「深き水底の王」とは何者かという戦慄に、身体が震えていた。
それを感じたのか、クローヴィスが励ますように言った。
「確かに、人は誰かのために戦うとき、本当に強くなれる。でも、強いからといって勝てるとは限らない。力が相手に及ばなければ、負ける。誰かのために戦っていると思うから、恐いんだ。守ろうとする人々に支えられ、力をもらって戦っている。君に力をくれるのは、誰だい?」
ジェハがリナの姿を思い出そうとしたとき、青白く光る地底湖から聞こえる声があった。
「待っておったぞ」
クローヴィスは身体を起こして、低くつぶやいた。
「誰を」
地底湖が事も無げに答える。
「汝を」
クローヴィスは腹立たしげに問うた。
「私が誰か知っているか」
地底湖は一言で答える。
「私とつながる者」
クローヴィスは立ち上がった。その怒りと苛立ちは限界に達しているようだった。
全身を震わせる咆哮が地底湖を震わせた。
「お前は『深き水底の王』か」
湖はもっそりと答えた。
「我は我。他の何者でもない」
クローヴィスの目から涙が溢れていた。号泣にも近い絶叫がその口から迸る。
「何故私を呼ぶ」
答える声には抑揚がなかった。
「汝と共にあらんがため」
湖の表面が泡立った。
一つ泡が立つたびに、どろりと粘っこい波紋が広がる。波紋は幾重にも広がり、湖面を粘液に変えていった。
粘液が何本もの触手となって伸びる。
咄嗟にジェハは、砂を跳ね上げて立ち上がった。剣の柄に手をかけ、クローヴィスに迫る触手に抜き打ちの一撃を浴びせる。
だが、触手のほうが素早かった。ジェハの剣は絡め取られ、湖の中へ消えた。
クローヴィスの背中で剣が暴れだした。黒太子の剣が、抜くべき時を継げているのである。
一閃!
触手が白い砂地の上に落ちた。
クローヴィスは次から次へと迫りくる触手を片端から切り落としていった。
だが、それは全て徒労に終わった。斬っても斬っても、触手は常に再生してくるのである。
ついに、触手の一本がクローヴィスを捕らえた。縛り上げたまま、湖へと引きずっていく。
湖の中から声が聞こえる。
「我に身を委ねよ」
クローヴィスの身体が湖へと引かれていく。ジェハはクローヴィスの身体にとりついて引き戻そうとした。
だが、触手の力は強かった。ジェハまでも砂の上に転がされ、湖に引き込まれそうになる。
クローヴィスはジェハの名を叫んだ。
「もういい、これは私の戦いだ」
ジェハはクローヴィスの身体から離れようとしない。ジェハの足が、湖面に触れた。全身が凍りつく想いがした。
クローヴィスはなおも叫び続ける。
「力で勝つことはできないようだ。ならば勝負を決めるのは、心……」
湖面の冷たさに全身がこわばり、腕や手から力が抜けていった。
ジェハは砂地の上に残された。クローヴィスは身体一つで地底湖に沈んでいった。ジェハはその有様を、呆然と見ているしかなかった。やがて、湖面に一振りの剣が現れ、ジェハのもとへと流れてきた。それは、クローヴィスの愛剣「黒太子の剣」であった。
ジェハが砂地に横たわったまま黒太子の剣を手に取ると、湖面が波立ち、騒ぎはじめた。
水面が盛り上がり、クローヴィスの姿を取った。
その粘液の塊にジェハは尋ねた。
「誰だ……?」
答はなかった。ただ、声が聞こえた。
あの水底から聞こえた声だった。
クローヴィスの姿をした粘液の塊が語りかけていた。
「我は、汝の求める答を持っておる」
「俺の……」
「あの娘を我が妻としたのは何故か」
「リナを……」
「この村は、もともと戦を逃れてきた者たちの村だった」
「アルケンとロークの戦か?」
「お前たちがそう呼ぶならそうだろう」
……それなら、襲い掛かってきた村の者を叩き斬っても、スロガ公爵へのご注進はなかったな。
そんなことを考えながら、ジェハは黒太子の剣を身体に引き寄せた。身体は冷え切っていたが、腕は何とか動いた。
クローヴィスの影は語り続ける。
「村の者どもは、田畑を流すほどの雨と、沼の瘴気に苦しんでいた。だが、この森の中を出ることはなかった」
「ここはスロガ公爵の領地だ。難民と分かれば、アルケンやロークのところへ送り返される」
ジェハの言葉に、声は応じなかった。
「森を切り開いて作った田畑は痩せている。大雨が降れば流される。そして、この沼の瘴気は、本来、人の身体に病をもたらす」
「瘴気の沼か……」
ジェハは、「瘴気の森」の霧を思い出していた。力なく嘲笑する。
「俺はなんともないぜ……」
「我が力よ。沼の腐った水から瘴気が生じ、瘴気の中に鬼が住まうのは如何ともしがたいが、病だけは抑えてやることができる。」
「たいしたもんだな」
「この湖は、あの沼の真下にあるのだよ」
ジェハはからかうように言った。
「雨も止められるのか?」
だが、声は厳かに答えた。
「雨がふるのは天地の理だが、田畑の土をつなぎとめてやることはできる」
ジェハは砂地に頬を押し当て、クローヴィスの影から目をそらした。吐き捨てるように言う。
「……アンタは神様か?」
答える声の口調は相変わらず起伏に乏しかった。
「お前たちがそう呼ぶならそうだろう。村の者たちは、あの祠で我を『沼神』と呼んでいた」
地下水脈に沈む祭壇のことが思い出された。あの祭壇で生贄を沼神に贈っていたのだろう。
「我が力を使ってきたのは、村の者どもの健気さに感じてのことだ。あの者たちは、なんとか水害や疫病を逃れて生き抜こうと知恵を絞った。だが、降る雨も沼の瘴気も人の力ではどうにもならん。とうとうあの者どもは、生贄を捧げることを思いついたのだろう、それにふさわしい場所を捜し求めて森をさまよい歩き、あの祠にたどりついた」
「生贄を放り込む祠だな」
「あの祠は、あの者どもがやってくるよりはるか昔からあった」
どれほど古い祠なのだろうか、とジェハは思った。クローヴィスは、ここにたどり着くまで10年を費やした。それまでの間、数え切れないほどの祠を探し回ってきた。きっとこうした祠は、気の遠くなるほどの昔から、あちこちに建てられてきたのだろう。そして、人は己のささやかな幸せのために、生贄を捧げ続けてきたのだ。
声は語り続ける。
「だが、祠を訪れ、我に祈る者がいなくなると、祠も打ち捨てられた」
「それを見つけたのが村の連中か」
「あの者どもが我に捧げた生贄は、自らの子どもたちだった。だから我も、あの者どもの夢を通じて、その願いに応ずることを告げた」
「クローヴィスみたいにか?」
ジェハはクローヴィスを眠らせなかったという声の話を思い出していた。沼神の声は答える。
「この者はクローヴィスというのだな」
「なぜ連れて行った?」
「我と交わりしもの、その血を引くものは、いずれ我が元へ還る。私は夢でその者らを呼ぶ」
ジェハの身体に、熱いものが流れた。
こいつと、交わる……?
「じゃあ、リナも……」
沼神はようやく、ジェハの問いに答え始めた。
「生贄は何代も続いた。災いが起こると、あの者どもは満月の晩に、わが子を祠から捧げた。我は、あの者たちがわが子を犠牲にする心に感じて、力を使ってきた。だが、あるとき、あの者どもは自らその心を汚した」
「リナに目をつけたんだな……」
「罪もない旅人を殺害し、その子を生贄に捧げた。我はあの者どもを許さぬことにした」
ジェハの身体が震えはじめた。
「だから何でリナを……」
「ここに流れ着いた娘は死に瀕していた。我が血を分け与えねば、死んでいたろう。我はそのまま娘を返し、瘴気の害を抑え、田畑の土を守り続けた」
「何のために……」
「あの娘が16歳になったとき、我が血が目覚める。そのとき、あの娘は我が身代わりとなって村の者どもを皆殺しにするだろう」
ジェハの身体に、再び熱い血が巡っていた。
砂地を蹴って立ち上がり、沼神に向かって突進した。
手にした黒太子の剣で斬りかかろうとする。
だが、剣はいやいやをするように鞘の中に引きこもろうとしていた。
……抜けない?
そう思ったとき、クローヴィスの声が湖の上に響き渡った。
「よせ!」
ジェハの身体は何か大きな力によって弾き飛ばされ、再び白い砂地に転がった。
「クローヴィス……?」
湖の上に浮かび上がる影は、クローヴィスの声で語りかけていた。
「すぐに戻れ。戻ってリナを救え。それまでこいつは私が抑える」
「救う……どうやって!」
尋ねるまでもなかった。ジェハにとってもリナにとっても、それは残酷な答だった。
クローヴィスは、その残酷な答を淀みなく言い放った。
「お前があの娘を愛しているなら、宿命から解き放ってやれ」
ジェハの怒号が、湖面に微かな波を立てた。ジェハは一言一言を叩きつけるように叫んだ。
「うるさい。オレはあの娘と生きる」
再び斬りかかろうとするが、剣は抜けなかった。
クローヴィスの影が手をゆっくりと前に突き出す。
ジェハの目の前に、光の壁が現れた。
「クローヴィス!」
壁に衝突した瞬間、ジェハの身体は大きく吹き飛ばされた。
18、
気がつくと、ジェハは祠の中に倒れていた。冷たい石の床の上で身体を起こすと、服は濡れていなかった。
夢だったかとも思ったが、クローヴィスの姿はなかった。
ジェハの剣はどこを探してもない。彼の傍には、代わりに黒太子の剣があった。
ジェハは自分の身体を探った。どこにも怪我はない。リナの短剣は、まだある。
立ち上がって黒太子の剣を背負い、祠の扉を開けた。闇夜だった。霧はなかった。
……クローヴィスの力だろうか?
そんなことも考えたが、詮索している暇はなかった。
夜空は晴れ上がり、星ばかりが輝いている。ジェハは星明りを頼りに、村へと走った。
村の家々には、灯がなかった。人気もなかった。
出口へ向かって走ると、背後から呼び止める者があった。
「何やってたんだ、半月も!」
ガルバだった。会ったときと同じ、厚い服に毛皮のズボンというむさ苦しい格好である。手には、あの大槌があった。
グルガンの話では、しばらく立ち上がれないはずだったが……まさか。
ジェハは跳ね上がりそうな息を抑えて尋ねた。
「ひと月?」
ガルバはジェハの問いには答えなかった。
「じいさんは、まだ動くなって言ったんだけどよ、こっそり抜け出してきたのさ」
あの地底湖にいるうちに、地上ではもうひと月が過ぎていたのである。
お伽噺で語られる、妖精の国のように……。
おそらく、幼い頃のリナも、満月の晩に生贄に捧げられ、半月後の新月に帰ってきたのだろう……。
ガルバは犬のように低く唸った。
「ガールッタめ……」
ジェハはガルバの両腕を掴んで尋ねた。
「何があった?」
ジェハの手を振りほどいて、ガルバは怒鳴った。
「皆、リナを殺しに行った!」
あまりのことに呆然とした。
だが、すぐに気を取り直し、ジェハは村の出口へ向かって走り出した。
ガルバが後を追いながら説明する。
「お前が出て行ってから何日かして、リナが水車小屋にやってきたんだ」
ジェハはしまったと思った。ガルバはバツの悪そうな顔をしている。やはり、情けなく横になっている姿は見られたくなかったようである。
だが、問題はそっちではない。
「オレが朝、来ないもんだから心配になったらしい。急病になったとか何とかグルガンがごまかしてくれたよ」
リナに責任を感じさせないで済んだのはまだ救いだった。
だが、ガルバの声は重く沈んだ。
「そしたらリナ、自分でガールッタに薬草を届けだしたらしいんだよ。あの遠い道を一人で歩いてさ……。」
それは心配いらない。ガルバは知らないが、リナは見かけによらず頑丈である。だが、ガルバは吐き捨てるように言った。
「ガールッタのババア、それでおかしいと思ったみたいなんだ。オレやグルガンのところにも来たよ。オレが急病でお前らが出てったって言っても信じなくてな。村の連中をそそのかしてさ、後を尾けたり、家の周りをかぎ回ったりしだしたらしい」
グルガンの目論見は外れたわけである。
おそらく、ガールッタは、リナの誠意を邪推したのだ。
記憶の底の沈んだ自分の過去を知ろうとしているのだと……。
話しているうちに、ガルバの息は荒くなっていった。
「さっき、ガールッタが慌てて戻ってきて、何か叫んでた。グルガン爺さんが宥めて、ついて行った」
村の出口を出てしばらく走ると、星も見えないほど真っ暗になった。森の中に入ったからである。
暗い森の中をしばらく走ると、点々と松明が見えるようになった。
ガルバが息を切らしながら、ジェハに教えた。
「村中総出だ。ありったけの刃物や得物を持ち出してる」
ジェハとガルバに気づいたのか、数人の村人が長柄の鎌や唐竿を手に襲い掛かってきた。
黒太子の剣は唸らない。
振り下ろされる武器を巧みな足さばきでかわしたジェハは、次々に拳や膝や肘を繰り出して村人を地面に転がした。
いつの間にか背後に回って包丁を振り上げていた男を、後ろ回しの高い蹴りで薙ぎ倒す。
あっという間に誰もが及び腰になり、各々の武器を猫背になって構えながらジェハとガルバを取り囲んだ。
ジェハが叫んだ。
「どこだ、ガールッタ!」
返事はなかった。
代わりに、村人たちが包囲の輪を縮めた。
ガルバが一声吼えて大槌を振り上げると、その輪はまた広がった。
ジェハはリナの家を見た。窓が明るくなったり暗くなったりを繰り返している。
明らかに、中では何かが起こっている。
ガルバはジェハに囁いた。
「行け」
ジェハは、家の扉を開けようとした。開かない。中からカギがかかっているのだ。
ジェハはガルバを呼んだ。ガルバが駆け寄って、大槌で扉を叩く。
扉が吹き飛んだ。
ジェハと共に家の中に駆け込んだガルバは、悲鳴を上げて腰を抜かした。大槌が床の上に転がる。
ランプが揺れていた。その揺れる明かりに照らされて、部屋そのものが揺れているように見えた。
リナの姿が揺れていた。右に左に揺れるだけでなく、その姿が変わりつつあった。
彼女が身体にまとっていた、あの白い麻の服は、無残なボロ布化して、その首からぶら下がっている。
その下から覗くのは、あの清らかな白い肌ではない。
生臭い臭いを放つ、青黒い鱗である。
鱗は細い腕までもびっしりと覆い、手の先には長く鋭い爪が伸びている。
そして何よりも、その華奢な脚は、上体を支えるに充分な太さを持つ蛇体へと変わっていた。
ただ、変わらないのはリナの顔だけだった。
空ろな目で、ジェハを見つめている。
その顔も、少しずつ鱗に覆われつつあるが、時々いっぺんに首筋の辺りまで白い肌が覗いたりもする。
ジェハは、部屋に響き渡る祈りの声に気づいた。
グルガンだ!
グルガンは杖を放り出してリナのすぐ傍にうずくまり、叫びにも近い声で祈りの言葉を唱えていた。
ジェハは、リナに呼びかけた。
「リナ……」
リナの目に一瞬、生気が宿った。ジェハの声に応える。
「ジェハ……さん」
だが、その表情はすぐに強張り、うっすらと鱗の色に青ざめた。
ジェハは泣いた。
「いやだ、そんなの……」
リナも頷いて、爪の鋭く伸びた手を差し出した。
「私も、ジェハさんと一緒に……」
ジェハはふらふらとリナに歩み寄った。
「リナ!」
リナは大きく腕を広げ、ジェハに這い寄っていく。
「ジェハさん、私、あなたのこと……」
だが、リナの目からは再び生気が失せた、広げた腕が振り上げられる。
グルガンが祈りの声を止めて叫んだ。
「いかん! 逃げろ!」
間に合わなかった。
リナの爪がジェハを襲う。
そのとき、ジェハの体が横殴りに弾き飛ばされた。床に転がされる。
老人とは思えない力で、グルガンがぶつかってきたのである。
ジェハの胸を貫くはずだった爪は、グルガンの心臓を抉った。
グルガンが床に倒れ伏すと、ジェハの鼻を生臭い風がなぶった。
見上げると、そこにはもうリナの顔はなかった。
黒い髪を振り乱し、長く細い下をちろちろと動かす、蛇の頭がジェハを見下ろしていた。
床に倒れ伏すグルガンなど気にも留めぬかのように、ラミアと化したリナは、爪を振り下ろす。
床を転がってかわしたジェハは、ガルバの落とした大槌を手に取った。
ラミアの爪が横薙ぎにジェハを襲う。ジェハは大槌の長い柄で受けた。
足元で、グルガンの苦しそうな声が聞こえる。
「すまん……嗅ぎつけられた」
爪は左右から凄まじい速さで叩きつけられる。ジェハは紙一重でかわしつづけたが、そんなことがそう長く続けられるわけもない。
グルガンは体の底から搾り出すような声で言った。
「お前たちが出て行ってからもう、ひと月だ」
迫る爪がかわしきれない。ジェハは、柄で受けながら、吹き飛ばされる前に自ら後ろに跳んで衝撃をかわした。
そのジェハを追うように、グルガンの声が床を這う。
「気づかれた……ガールッタに」
ラミアの動きは速かった。ジェハは壁を背にして、大槌の柄をラミアに向けて牽制する。
左手を前に、右手を後ろに。
グルガンが、残りの息を吐き出すように弾ませた。
「ガールッタが人を集めて来た……止めないと、リナが皆殺しに……」
その声に、ジェハが初めて答えた。
「止めてやる」
だが、それはリナに向けられたものでもあった。
……リナ! お前がラミアでも構わない。一緒に生きよう。俺が守ってやる!
ジェハは大槌の柄を持った左手を逆手に握り替えた。続いて右手も握り替え、槌の部分を力いっぱい押し上げる。
大きく踏み込んで間合いを詰め、渾身の一撃を見舞う。
命中!
一瞬の期待があった。
……あの夜、ジェハの一撃が命中したことでリナは正気に戻り、変身が解けた。ならば今度も……。
その期待は、甘かった。
ラミアの体が回転し、太い尾で大槌を弾き飛ばされた。
グルガンの、微かな声が聞こえた。
「殺させるな……リナに……誰も……」
それだけ言って、グルガンは息絶えた。
グルガンが死に、変身を解くためのいかなる望みも絶たれたことをジェハは悟った。
グルガンの亡骸を見もしないで、ジェハはつぶやいた。
「分かってるよ」
背中に手を回す。
黒太子の剣でリナに斬りかかろう、ジェハはその柄に手をかけた。
だが、剣は抜けなかった。
ジェハはクローヴィスの言葉を思い出した。「抜くべきときは、剣が選ぶ……」
ラミアの爪の一閃を、ジェハは危ういところでかわした。咄嗟に短剣を抜く。リナが「深き水底の王」から与えられた短剣である。その剣には、こう書いてあったはずだ。
……「汝の愛する者この刃もて命断たぬ限り深き水底の王の妻となるべし」……
「あいつの妻には、しない!」
ジェハは床を蹴った。ラミアに突進する。ジェハの握り締めた短剣が、リナだったラミアの心臓を狙う。
だが、その狙いは外れた。
短剣は、リナの前に立ちはだかったガルバの心臓を貫いていた。
ガルバの口から、真っ赤な血が吐き出された。
自分の血にむせながら、ガルバは言った。
「リナ、オレじゃダメかよ……」
岩のようにごつごつした手が、ジェハの手を覆う。
ガルバの節くれだった指が、あまりのことに愕然とするジェハの指を、短剣から引き剥がす。
ジェハはようやくのことで我に返った。
「知ってたのか……」
ジェハが引き抜こうとする短剣を、ガルバは掴んで離さない。
「ああ……人が寝てるときに大声出すなよな……」
ジェハは絶叫した。
「邪魔すんなあ!」
ガルバの後ろで、ラミアがじりじり退こうとしている。
短剣を掴んだまま、最期の一言を残してガルバは事切れた。
「できれば、死ぬまで知らないでいたかった……」
それでも短剣はもぎ取れなかった。ラミアが腕を振り上げる気配がする。
ジェハは、咄嗟にガルバを楯にして床を転がった。爪がガルバの身体を貫く。
ガルバの亡骸がラミアと化したリナを慕うように倒れこんでいった。
ラミアは逃れようともがいたが、自らの爪が深く刺さったのが災いして、ガルバの身体に釘付けになっている。
その隙を衝いて、ジェハは考えた。
……どうする?
床に転がったすぐ傍には、グルガンの亡骸があった。生きているうちに知恵の一つも借りておくべきだったかと、ジェハは一瞬だけ後悔した。
だが、ジェハはその亡骸の傍に、一本の杖を発見した。グルガンの杖である。
……これだ!
ジェハは杖を拾って立ち上がり、握りの部分を掴んで引き抜きながらガルバに突進した。
仕込み杖の一閃!
短剣は、ガルバの手首ごと床に落ちた。拾い上げると、岩のようなガルバの手が床に転がる。ジェハの手の中には、短剣だけが残った。
グルガンの剣を捨て、その短剣の柄を握り締める。あの、2匹の蛇が絡み合う、禍々しい形の柄である。
ジェハはそのまま床を蹴った。
踊るように軽やかに、しかし凄まじい速さで身を翻したジェハは、ラミアの背後に回り込む。
背中から、心臓めがけて短剣を突き刺すと、ラミアは金切り声を上げて悶絶した。
のしかかるガルバの体重が、ジェハにも感じられた。
力の限り短剣を押し込むジェハとの間に挟まれて、ラミアは動くこともできない。
しばらくもがいていたラミアはしだいに弱々しく震え始め、やがて両腕をだらりと垂れて、ジェハやガルバと共に横倒しになった。
ジェハは、短剣から手を離して立ち上がった。
床を見下ろすと、リナだったラミアがガルバを背中から抱きしめて横たわっているように見える。
ガルバの目からも、ラミア……いや、リナの目からも、涙が流れていた。
ジェハも泣き出した。
今まで涙を流したことは何度もある。
確か、見世物小屋の座長に襲われたときは涙を流して抵抗した。傭兵となって戦場に出たときは、隠れていた塹壕に煙いぶしをかけられて、涙を流して退却した覚えがある。
だが、泣いたのは生まれて初めてだった。
ジェハは、三つの亡骸をあとにリナの家を出た。
戸口を出ると、村人たちが待ち構えていた。
手に手に得物と松明を持った村人たちの中から、どうなった、という声が聞こえた。
ジェハは答えなかった。ただ、石段の上からガールッタを探した。
村の男がひとり、おそるおそる進み出て石段を登り、ジェハの身体を押しのけて家の中に入った。
しばらく経って出てきたその男は、ジェハの腕を掴んで高々と差し上げ、叫んだ。
「死んだぞ」
松明の炎だけが揺れる森の中に、村人たちの歓声が響き渡った。
ジェハの胸の中に、何かどす黒い塊が膨れ上がりはじめていた。それは次第にジェハの身体を揺すぶり始めた。
実際、ジェハの握り拳は微かに震えていた。やり場のない怒りがこみあげてきていた。何に対して怒っていいのか分からなかった。
何よりも、今、何をすべきなのかが分からなかった。
ただ分かっているのは、「このままで済ませてはいけない」ということだった。
そこへ、松明を掲げた村人たちの間を縫って、ガールッタが新月の闇の中から現れた。
何本もの松明の灯に照らされて右に左に揺れるその顔は、笑っていた。それは、初めて会って薬草を買ったとき、ジェハが渡した金貨を見たときの笑いだった。
ガールッタは、あのときの口調で言った。薬草の効能をまくし立てたときの、あの威勢のいい声だった。
「あんた、アタシの思ったとおりだよ、ただモンじゃないねえ」
そして、村人を見渡して言った。
「たいした旅のお方だよ、よく来てくれたもんじゃないか、ええ?」
村人たちは笑いだした。始めは自信のない、微かな笑い声だった。それが次第に誰かから誰かに伝わり、また、互いに高めあい、波紋のように大きく広がっていった。
その笑いは、ついには一同のものとなった。皆、幸せそうに高らかに笑った。それぞれの笑顔が、松明の灯にちろちろと揺れた。笑う村人たちの群れを、リナの家の中から洩れたランプの光がぼんやりと照らしていた。
そのランプの下には、ラミアと化したリナが死んでいる。そして、自ら命を捨ててかかったガルバとグルガンが死んでいる。
他の村人は、誰も死んではいない。
ジェハは、「深き水底の王」の言葉を思い出した。「あの娘が16歳になったとき、我が血が目覚める。そのとき、あの娘は我が身代わりとなって村の者どもを皆殺しにするだろう」。
また、グルガンの言葉を思い出した。「救ってやろうとすれば、誰かが殺してやるしかない」。
そして、クローヴィスの最後の言葉を思った。「お前があの娘を愛しているなら、宿命から解き放ってやれ」。
……本当に、これでよかったのか?
そのとき、ジェハは自分の体のものではない震えを背中に感じた。
それは、聞いたことのある唸り声だった。
黒太子の剣が鳴り騒いでいるのである。
ジェハはつぶやいた。
「そうかよ」
ジェハの手を差し上げている男が、ジェハに笑顔を向けた。
その男の顔を見ながら、ジェハはつぶやいた。
「そういうことかよ」
ジェハの言葉をどう捉えたのか、男はにっこりと頷いた。
石段の下を見れば、ニコニコ顔で近寄るガールッタがいる。
ジェハは叫んだ。
「それならそれでいい!」
差し上げられた手で男の手首を掴み、腕の一振りで石段の下に投げ落とす。
地面に叩きつけられた男が、ぎゃっと叫んだ。
ジェハを見上げるガールッタの目が、呆然と見開かれた。
その顔面に向かって、石段から飛び降りたジェハが抜き放った黒太子の剣が叩きつけられる。
ガールッタの身体が、一刀の下に唐竹割りにされる。
……やっぱりよく斬れる。
斬った勢いで屈みこんだ地面から立ち上がりながら、ジェハは思った。
黒太子の剣を逆手に持ち替える。
そして、さっき投げ落とした男の心臓に突き刺して引き抜くや、そのまま、新月の闇に揺れる村人たちの顔という顔めがけて斬り込んでいった。
19、
スロガ公爵領で起こった傭兵同士の乱闘事件は、関わったローク男爵側の私兵全てが処刑されて解決された。
その中には、逃走中に警備兵に抵抗して殺された者もあれば、連行された後、裁きにかけられて死刑を宣告された者もあった。
その裁きの中で、アルケン伯爵側の私兵によってローク側の私兵に負傷者があったことも明らかにされた。
領内で騒乱を起こした者は例外なく処刑するというスロガ公爵の厳命により、アルケン伯爵に雇われたグルトフラング傭兵団にも調査が及んだ。
しかし、乱闘に関わったジェハという少年兵は確認できなかった。
団長のグルトフラングは老獪ではあるが狡猾ではなかった。自らスロガ公爵の前に出頭し、ジェハという少年兵が傭兵団の一員であることを認めた上で、今回の戦闘には参加していないことを明言した。スロガ公爵は、その堂々たる態度を称え、該当する兵の処分を一任した。
グルトフラングはジェハの行為を敵前逃亡とみなし、傭兵団の中から数名の暗殺者を募ってジェハを捜索させた。
暗殺団はスロガ公爵の警備兵たちも及ばない働きを見せた。何度も現場に足を運び、近辺の領民から目撃情報を集め、ジェハが「帰らずの森」に逃げ込んだという結論を出した。彼らはジェハを追って「帰らずの森」の中に踏み込んでいったが、そのまま再び戻ることはなかった。
グルトフラング傭兵団の暗殺者は何度も送り込まれた。だが、生還者はなかった。やがて、アルケン伯爵領とローク男爵領の国境争いは何度目かの休戦を迎え、それをきっかけにジェハの捜索も打ち切られた。
そして長い年月が経って、「帰らずの森」に妖怪が出るという噂が立った。この噂は必ず、「友達の友達が、その森から逃げ出してきた子どもたちから聞いたらしい」という前置きで始まる。だが、その「子どもたち」に何があったのか、どこでどうしているのか知る者は誰もいない。
その噂というのはこんな話である。
何でも、森の中の小道をどこまでも行くと、無数の塚がその両端に見えてくるのだという。
その間を歩いていくと、森の中に切妻屋根の小さな2階建ての家が現れる。
そこには色の黒い髭面の小男が棲んでいて、家の前を通り過ぎようとすれば、呼び止めて勝負を挑むのだという。
勝負を受けても拒んでも、生きて帰ることはできない。
男の振るう黒い長剣は、最初の一撃で急所を襲い、相手を絶命させるからである。
噂が本当かどうか、確かめる術はない。男が生きているのかどうかも分からない。
なぜなら、スロガ公爵領からアルケン伯爵領に行くにもローク男爵領に行くにも、「帰らずの森」を迂回する安全な街道が立派に整備され、敢えて危険を冒すこともないからである。
もしかすると、わざわざ道を外れる物好きが何人かいたかもしれないが……
だが、いずれにしても、「帰らずの森」から生きて帰った者がいるという話が聞こえてこないところを見ると、男はまだ、生きているのかもしれない。
(完)
真夜中の満月の下を、ジェハとクローヴィスは足音もなく歩いた。やがて、二人は祠に向かうべく、『瘴気の森』に足を踏みいれた。
クローヴィスが呪文を唱えれば、夜の濃い霧が道を開ける。
その道をしばらく並んで歩いて、クローヴィスが言った。
「君は優しいな」
ジェハはうろたえてそっぽを向いた。
「よせよ」
クローヴィスは一歩下がり、ジェハの全身を背後から見た。
「傭兵らしくない」
ジェハは首を捻って、背後のクローヴィスに抗議した。
「そんなことはない」
クローヴィスはその抗議には応じず、質問を続ける。
「何で傭兵なんかになったんだ」
ジェハは前を向いて、即座に答えた。
「それしか能がなかった」
クローヴィスはジェハの背後についたまま尋ねる。
「最初に人を殺すのは、恐くなかったか」
ジェハは鼻で笑った。
「10歳でもうやってる」
クローヴィスはちょっと返事ができないようだった。ジェハは乾いた笑い声を立てて、吐き捨てるように自分の過去を語った。
見世物小屋の猛獣を殺し、興行主に犯されて男娼に売られかかった過去……。
ジェハは身を守るために興行主を殺して、売上を奪って逃げたのだった。
初めて剣を買った金は、そのときに血で濡れた金袋から出たものだった。
ジェハも、振り向きもせずに尋ねた。
「アンタは?」
クローヴィスも、乾いた笑い声を立てた。
「最初に請け負ったのが、暗殺の仕事だった。金をくれた相手に言われるままに、夜道で人を待ち伏せて殺した。16歳のときだった。師匠のもとを離れて一人で生きるためには、仕方がなかった。仕事が終わってから、泣いたよ。そのまま死んでしまおうかと思うくらい泣いて、今まで生きてる」
悲しい話のはずなのに、クローヴィスの口調はいつものとおり眠たげであった。
やがて祠にたどりついた二人は、中に入った。
地下水脈の入り口は見当がついている。あの石の祭壇だ。
二人が乗った祭壇はあっという間に床下に沈んだ。
身体はあっという間に水の中へ沈み、強い水流に流される。
凄まじい流れによって身体が弄ばれるが、溺れそうな気は全くしなかった。クローヴィスの当て推量は、どうやら的を射ていたようである。
やがて、ジェハとクローヴィスは洞窟の中の川を流されていた。乳白色の鍾乳洞を流れる、澄んだ冷たい川である。
川は何度も蛇行し、二人の身体を地底湖のほとりへ投げ出した。細かく、白い砂の堆積した岸辺である。
地底湖は、青白く光っていた。何がどこから照らしているのか分からない。
いや、湖そのものが光っていた。ただし、地底湖の放つ光では、湖の端は分からなかった。湖の端は薄い闇に覆われていた。端がその薄い闇に隠されることで、地底湖は無限の広さを持つようにも見えた。
クローヴィスが言った。
「こんなところがあるとは……グルガンでも考えが及ばなかったのは仕方ないかな」
ジェハに振り向いてみせる。
「『深き水底の王』は、瘴気の沼じゃなく、どうやらここにいるみたいだ」
ジェハに、答える言葉はなかった。「深き水底の王」とは何者かという戦慄に、身体が震えていた。
それを感じたのか、クローヴィスが励ますように言った。
「確かに、人は誰かのために戦うとき、本当に強くなれる。でも、強いからといって勝てるとは限らない。力が相手に及ばなければ、負ける。誰かのために戦っていると思うから、恐いんだ。守ろうとする人々に支えられ、力をもらって戦っている。君に力をくれるのは、誰だい?」
ジェハがリナの姿を思い出そうとしたとき、青白く光る地底湖から聞こえる声があった。
「待っておったぞ」
クローヴィスは身体を起こして、低くつぶやいた。
「誰を」
地底湖が事も無げに答える。
「汝を」
クローヴィスは腹立たしげに問うた。
「私が誰か知っているか」
地底湖は一言で答える。
「私とつながる者」
クローヴィスは立ち上がった。その怒りと苛立ちは限界に達しているようだった。
全身を震わせる咆哮が地底湖を震わせた。
「お前は『深き水底の王』か」
湖はもっそりと答えた。
「我は我。他の何者でもない」
クローヴィスの目から涙が溢れていた。号泣にも近い絶叫がその口から迸る。
「何故私を呼ぶ」
答える声には抑揚がなかった。
「汝と共にあらんがため」
湖の表面が泡立った。
一つ泡が立つたびに、どろりと粘っこい波紋が広がる。波紋は幾重にも広がり、湖面を粘液に変えていった。
粘液が何本もの触手となって伸びる。
咄嗟にジェハは、砂を跳ね上げて立ち上がった。剣の柄に手をかけ、クローヴィスに迫る触手に抜き打ちの一撃を浴びせる。
だが、触手のほうが素早かった。ジェハの剣は絡め取られ、湖の中へ消えた。
クローヴィスの背中で剣が暴れだした。黒太子の剣が、抜くべき時を継げているのである。
一閃!
触手が白い砂地の上に落ちた。
クローヴィスは次から次へと迫りくる触手を片端から切り落としていった。
だが、それは全て徒労に終わった。斬っても斬っても、触手は常に再生してくるのである。
ついに、触手の一本がクローヴィスを捕らえた。縛り上げたまま、湖へと引きずっていく。
湖の中から声が聞こえる。
「我に身を委ねよ」
クローヴィスの身体が湖へと引かれていく。ジェハはクローヴィスの身体にとりついて引き戻そうとした。
だが、触手の力は強かった。ジェハまでも砂の上に転がされ、湖に引き込まれそうになる。
クローヴィスはジェハの名を叫んだ。
「もういい、これは私の戦いだ」
ジェハはクローヴィスの身体から離れようとしない。ジェハの足が、湖面に触れた。全身が凍りつく想いがした。
クローヴィスはなおも叫び続ける。
「力で勝つことはできないようだ。ならば勝負を決めるのは、心……」
湖面の冷たさに全身がこわばり、腕や手から力が抜けていった。
ジェハは砂地の上に残された。クローヴィスは身体一つで地底湖に沈んでいった。ジェハはその有様を、呆然と見ているしかなかった。やがて、湖面に一振りの剣が現れ、ジェハのもとへと流れてきた。それは、クローヴィスの愛剣「黒太子の剣」であった。
ジェハが砂地に横たわったまま黒太子の剣を手に取ると、湖面が波立ち、騒ぎはじめた。
水面が盛り上がり、クローヴィスの姿を取った。
その粘液の塊にジェハは尋ねた。
「誰だ……?」
答はなかった。ただ、声が聞こえた。
あの水底から聞こえた声だった。
クローヴィスの姿をした粘液の塊が語りかけていた。
「我は、汝の求める答を持っておる」
「俺の……」
「あの娘を我が妻としたのは何故か」
「リナを……」
「この村は、もともと戦を逃れてきた者たちの村だった」
「アルケンとロークの戦か?」
「お前たちがそう呼ぶならそうだろう」
……それなら、襲い掛かってきた村の者を叩き斬っても、スロガ公爵へのご注進はなかったな。
そんなことを考えながら、ジェハは黒太子の剣を身体に引き寄せた。身体は冷え切っていたが、腕は何とか動いた。
クローヴィスの影は語り続ける。
「村の者どもは、田畑を流すほどの雨と、沼の瘴気に苦しんでいた。だが、この森の中を出ることはなかった」
「ここはスロガ公爵の領地だ。難民と分かれば、アルケンやロークのところへ送り返される」
ジェハの言葉に、声は応じなかった。
「森を切り開いて作った田畑は痩せている。大雨が降れば流される。そして、この沼の瘴気は、本来、人の身体に病をもたらす」
「瘴気の沼か……」
ジェハは、「瘴気の森」の霧を思い出していた。力なく嘲笑する。
「俺はなんともないぜ……」
「我が力よ。沼の腐った水から瘴気が生じ、瘴気の中に鬼が住まうのは如何ともしがたいが、病だけは抑えてやることができる。」
「たいしたもんだな」
「この湖は、あの沼の真下にあるのだよ」
ジェハはからかうように言った。
「雨も止められるのか?」
だが、声は厳かに答えた。
「雨がふるのは天地の理だが、田畑の土をつなぎとめてやることはできる」
ジェハは砂地に頬を押し当て、クローヴィスの影から目をそらした。吐き捨てるように言う。
「……アンタは神様か?」
答える声の口調は相変わらず起伏に乏しかった。
「お前たちがそう呼ぶならそうだろう。村の者たちは、あの祠で我を『沼神』と呼んでいた」
地下水脈に沈む祭壇のことが思い出された。あの祭壇で生贄を沼神に贈っていたのだろう。
「我が力を使ってきたのは、村の者どもの健気さに感じてのことだ。あの者たちは、なんとか水害や疫病を逃れて生き抜こうと知恵を絞った。だが、降る雨も沼の瘴気も人の力ではどうにもならん。とうとうあの者どもは、生贄を捧げることを思いついたのだろう、それにふさわしい場所を捜し求めて森をさまよい歩き、あの祠にたどりついた」
「生贄を放り込む祠だな」
「あの祠は、あの者どもがやってくるよりはるか昔からあった」
どれほど古い祠なのだろうか、とジェハは思った。クローヴィスは、ここにたどり着くまで10年を費やした。それまでの間、数え切れないほどの祠を探し回ってきた。きっとこうした祠は、気の遠くなるほどの昔から、あちこちに建てられてきたのだろう。そして、人は己のささやかな幸せのために、生贄を捧げ続けてきたのだ。
声は語り続ける。
「だが、祠を訪れ、我に祈る者がいなくなると、祠も打ち捨てられた」
「それを見つけたのが村の連中か」
「あの者どもが我に捧げた生贄は、自らの子どもたちだった。だから我も、あの者どもの夢を通じて、その願いに応ずることを告げた」
「クローヴィスみたいにか?」
ジェハはクローヴィスを眠らせなかったという声の話を思い出していた。沼神の声は答える。
「この者はクローヴィスというのだな」
「なぜ連れて行った?」
「我と交わりしもの、その血を引くものは、いずれ我が元へ還る。私は夢でその者らを呼ぶ」
ジェハの身体に、熱いものが流れた。
こいつと、交わる……?
「じゃあ、リナも……」
沼神はようやく、ジェハの問いに答え始めた。
「生贄は何代も続いた。災いが起こると、あの者どもは満月の晩に、わが子を祠から捧げた。我は、あの者たちがわが子を犠牲にする心に感じて、力を使ってきた。だが、あるとき、あの者どもは自らその心を汚した」
「リナに目をつけたんだな……」
「罪もない旅人を殺害し、その子を生贄に捧げた。我はあの者どもを許さぬことにした」
ジェハの身体が震えはじめた。
「だから何でリナを……」
「ここに流れ着いた娘は死に瀕していた。我が血を分け与えねば、死んでいたろう。我はそのまま娘を返し、瘴気の害を抑え、田畑の土を守り続けた」
「何のために……」
「あの娘が16歳になったとき、我が血が目覚める。そのとき、あの娘は我が身代わりとなって村の者どもを皆殺しにするだろう」
ジェハの身体に、再び熱い血が巡っていた。
砂地を蹴って立ち上がり、沼神に向かって突進した。
手にした黒太子の剣で斬りかかろうとする。
だが、剣はいやいやをするように鞘の中に引きこもろうとしていた。
……抜けない?
そう思ったとき、クローヴィスの声が湖の上に響き渡った。
「よせ!」
ジェハの身体は何か大きな力によって弾き飛ばされ、再び白い砂地に転がった。
「クローヴィス……?」
湖の上に浮かび上がる影は、クローヴィスの声で語りかけていた。
「すぐに戻れ。戻ってリナを救え。それまでこいつは私が抑える」
「救う……どうやって!」
尋ねるまでもなかった。ジェハにとってもリナにとっても、それは残酷な答だった。
クローヴィスは、その残酷な答を淀みなく言い放った。
「お前があの娘を愛しているなら、宿命から解き放ってやれ」
ジェハの怒号が、湖面に微かな波を立てた。ジェハは一言一言を叩きつけるように叫んだ。
「うるさい。オレはあの娘と生きる」
再び斬りかかろうとするが、剣は抜けなかった。
クローヴィスの影が手をゆっくりと前に突き出す。
ジェハの目の前に、光の壁が現れた。
「クローヴィス!」
壁に衝突した瞬間、ジェハの身体は大きく吹き飛ばされた。
18、
気がつくと、ジェハは祠の中に倒れていた。冷たい石の床の上で身体を起こすと、服は濡れていなかった。
夢だったかとも思ったが、クローヴィスの姿はなかった。
ジェハの剣はどこを探してもない。彼の傍には、代わりに黒太子の剣があった。
ジェハは自分の身体を探った。どこにも怪我はない。リナの短剣は、まだある。
立ち上がって黒太子の剣を背負い、祠の扉を開けた。闇夜だった。霧はなかった。
……クローヴィスの力だろうか?
そんなことも考えたが、詮索している暇はなかった。
夜空は晴れ上がり、星ばかりが輝いている。ジェハは星明りを頼りに、村へと走った。
村の家々には、灯がなかった。人気もなかった。
出口へ向かって走ると、背後から呼び止める者があった。
「何やってたんだ、半月も!」
ガルバだった。会ったときと同じ、厚い服に毛皮のズボンというむさ苦しい格好である。手には、あの大槌があった。
グルガンの話では、しばらく立ち上がれないはずだったが……まさか。
ジェハは跳ね上がりそうな息を抑えて尋ねた。
「ひと月?」
ガルバはジェハの問いには答えなかった。
「じいさんは、まだ動くなって言ったんだけどよ、こっそり抜け出してきたのさ」
あの地底湖にいるうちに、地上ではもうひと月が過ぎていたのである。
お伽噺で語られる、妖精の国のように……。
おそらく、幼い頃のリナも、満月の晩に生贄に捧げられ、半月後の新月に帰ってきたのだろう……。
ガルバは犬のように低く唸った。
「ガールッタめ……」
ジェハはガルバの両腕を掴んで尋ねた。
「何があった?」
ジェハの手を振りほどいて、ガルバは怒鳴った。
「皆、リナを殺しに行った!」
あまりのことに呆然とした。
だが、すぐに気を取り直し、ジェハは村の出口へ向かって走り出した。
ガルバが後を追いながら説明する。
「お前が出て行ってから何日かして、リナが水車小屋にやってきたんだ」
ジェハはしまったと思った。ガルバはバツの悪そうな顔をしている。やはり、情けなく横になっている姿は見られたくなかったようである。
だが、問題はそっちではない。
「オレが朝、来ないもんだから心配になったらしい。急病になったとか何とかグルガンがごまかしてくれたよ」
リナに責任を感じさせないで済んだのはまだ救いだった。
だが、ガルバの声は重く沈んだ。
「そしたらリナ、自分でガールッタに薬草を届けだしたらしいんだよ。あの遠い道を一人で歩いてさ……。」
それは心配いらない。ガルバは知らないが、リナは見かけによらず頑丈である。だが、ガルバは吐き捨てるように言った。
「ガールッタのババア、それでおかしいと思ったみたいなんだ。オレやグルガンのところにも来たよ。オレが急病でお前らが出てったって言っても信じなくてな。村の連中をそそのかしてさ、後を尾けたり、家の周りをかぎ回ったりしだしたらしい」
グルガンの目論見は外れたわけである。
おそらく、ガールッタは、リナの誠意を邪推したのだ。
記憶の底の沈んだ自分の過去を知ろうとしているのだと……。
話しているうちに、ガルバの息は荒くなっていった。
「さっき、ガールッタが慌てて戻ってきて、何か叫んでた。グルガン爺さんが宥めて、ついて行った」
村の出口を出てしばらく走ると、星も見えないほど真っ暗になった。森の中に入ったからである。
暗い森の中をしばらく走ると、点々と松明が見えるようになった。
ガルバが息を切らしながら、ジェハに教えた。
「村中総出だ。ありったけの刃物や得物を持ち出してる」
ジェハとガルバに気づいたのか、数人の村人が長柄の鎌や唐竿を手に襲い掛かってきた。
黒太子の剣は唸らない。
振り下ろされる武器を巧みな足さばきでかわしたジェハは、次々に拳や膝や肘を繰り出して村人を地面に転がした。
いつの間にか背後に回って包丁を振り上げていた男を、後ろ回しの高い蹴りで薙ぎ倒す。
あっという間に誰もが及び腰になり、各々の武器を猫背になって構えながらジェハとガルバを取り囲んだ。
ジェハが叫んだ。
「どこだ、ガールッタ!」
返事はなかった。
代わりに、村人たちが包囲の輪を縮めた。
ガルバが一声吼えて大槌を振り上げると、その輪はまた広がった。
ジェハはリナの家を見た。窓が明るくなったり暗くなったりを繰り返している。
明らかに、中では何かが起こっている。
ガルバはジェハに囁いた。
「行け」
ジェハは、家の扉を開けようとした。開かない。中からカギがかかっているのだ。
ジェハはガルバを呼んだ。ガルバが駆け寄って、大槌で扉を叩く。
扉が吹き飛んだ。
ジェハと共に家の中に駆け込んだガルバは、悲鳴を上げて腰を抜かした。大槌が床の上に転がる。
ランプが揺れていた。その揺れる明かりに照らされて、部屋そのものが揺れているように見えた。
リナの姿が揺れていた。右に左に揺れるだけでなく、その姿が変わりつつあった。
彼女が身体にまとっていた、あの白い麻の服は、無残なボロ布化して、その首からぶら下がっている。
その下から覗くのは、あの清らかな白い肌ではない。
生臭い臭いを放つ、青黒い鱗である。
鱗は細い腕までもびっしりと覆い、手の先には長く鋭い爪が伸びている。
そして何よりも、その華奢な脚は、上体を支えるに充分な太さを持つ蛇体へと変わっていた。
ただ、変わらないのはリナの顔だけだった。
空ろな目で、ジェハを見つめている。
その顔も、少しずつ鱗に覆われつつあるが、時々いっぺんに首筋の辺りまで白い肌が覗いたりもする。
ジェハは、部屋に響き渡る祈りの声に気づいた。
グルガンだ!
グルガンは杖を放り出してリナのすぐ傍にうずくまり、叫びにも近い声で祈りの言葉を唱えていた。
ジェハは、リナに呼びかけた。
「リナ……」
リナの目に一瞬、生気が宿った。ジェハの声に応える。
「ジェハ……さん」
だが、その表情はすぐに強張り、うっすらと鱗の色に青ざめた。
ジェハは泣いた。
「いやだ、そんなの……」
リナも頷いて、爪の鋭く伸びた手を差し出した。
「私も、ジェハさんと一緒に……」
ジェハはふらふらとリナに歩み寄った。
「リナ!」
リナは大きく腕を広げ、ジェハに這い寄っていく。
「ジェハさん、私、あなたのこと……」
だが、リナの目からは再び生気が失せた、広げた腕が振り上げられる。
グルガンが祈りの声を止めて叫んだ。
「いかん! 逃げろ!」
間に合わなかった。
リナの爪がジェハを襲う。
そのとき、ジェハの体が横殴りに弾き飛ばされた。床に転がされる。
老人とは思えない力で、グルガンがぶつかってきたのである。
ジェハの胸を貫くはずだった爪は、グルガンの心臓を抉った。
グルガンが床に倒れ伏すと、ジェハの鼻を生臭い風がなぶった。
見上げると、そこにはもうリナの顔はなかった。
黒い髪を振り乱し、長く細い下をちろちろと動かす、蛇の頭がジェハを見下ろしていた。
床に倒れ伏すグルガンなど気にも留めぬかのように、ラミアと化したリナは、爪を振り下ろす。
床を転がってかわしたジェハは、ガルバの落とした大槌を手に取った。
ラミアの爪が横薙ぎにジェハを襲う。ジェハは大槌の長い柄で受けた。
足元で、グルガンの苦しそうな声が聞こえる。
「すまん……嗅ぎつけられた」
爪は左右から凄まじい速さで叩きつけられる。ジェハは紙一重でかわしつづけたが、そんなことがそう長く続けられるわけもない。
グルガンは体の底から搾り出すような声で言った。
「お前たちが出て行ってからもう、ひと月だ」
迫る爪がかわしきれない。ジェハは、柄で受けながら、吹き飛ばされる前に自ら後ろに跳んで衝撃をかわした。
そのジェハを追うように、グルガンの声が床を這う。
「気づかれた……ガールッタに」
ラミアの動きは速かった。ジェハは壁を背にして、大槌の柄をラミアに向けて牽制する。
左手を前に、右手を後ろに。
グルガンが、残りの息を吐き出すように弾ませた。
「ガールッタが人を集めて来た……止めないと、リナが皆殺しに……」
その声に、ジェハが初めて答えた。
「止めてやる」
だが、それはリナに向けられたものでもあった。
……リナ! お前がラミアでも構わない。一緒に生きよう。俺が守ってやる!
ジェハは大槌の柄を持った左手を逆手に握り替えた。続いて右手も握り替え、槌の部分を力いっぱい押し上げる。
大きく踏み込んで間合いを詰め、渾身の一撃を見舞う。
命中!
一瞬の期待があった。
……あの夜、ジェハの一撃が命中したことでリナは正気に戻り、変身が解けた。ならば今度も……。
その期待は、甘かった。
ラミアの体が回転し、太い尾で大槌を弾き飛ばされた。
グルガンの、微かな声が聞こえた。
「殺させるな……リナに……誰も……」
それだけ言って、グルガンは息絶えた。
グルガンが死に、変身を解くためのいかなる望みも絶たれたことをジェハは悟った。
グルガンの亡骸を見もしないで、ジェハはつぶやいた。
「分かってるよ」
背中に手を回す。
黒太子の剣でリナに斬りかかろう、ジェハはその柄に手をかけた。
だが、剣は抜けなかった。
ジェハはクローヴィスの言葉を思い出した。「抜くべきときは、剣が選ぶ……」
ラミアの爪の一閃を、ジェハは危ういところでかわした。咄嗟に短剣を抜く。リナが「深き水底の王」から与えられた短剣である。その剣には、こう書いてあったはずだ。
……「汝の愛する者この刃もて命断たぬ限り深き水底の王の妻となるべし」……
「あいつの妻には、しない!」
ジェハは床を蹴った。ラミアに突進する。ジェハの握り締めた短剣が、リナだったラミアの心臓を狙う。
だが、その狙いは外れた。
短剣は、リナの前に立ちはだかったガルバの心臓を貫いていた。
ガルバの口から、真っ赤な血が吐き出された。
自分の血にむせながら、ガルバは言った。
「リナ、オレじゃダメかよ……」
岩のようにごつごつした手が、ジェハの手を覆う。
ガルバの節くれだった指が、あまりのことに愕然とするジェハの指を、短剣から引き剥がす。
ジェハはようやくのことで我に返った。
「知ってたのか……」
ジェハが引き抜こうとする短剣を、ガルバは掴んで離さない。
「ああ……人が寝てるときに大声出すなよな……」
ジェハは絶叫した。
「邪魔すんなあ!」
ガルバの後ろで、ラミアがじりじり退こうとしている。
短剣を掴んだまま、最期の一言を残してガルバは事切れた。
「できれば、死ぬまで知らないでいたかった……」
それでも短剣はもぎ取れなかった。ラミアが腕を振り上げる気配がする。
ジェハは、咄嗟にガルバを楯にして床を転がった。爪がガルバの身体を貫く。
ガルバの亡骸がラミアと化したリナを慕うように倒れこんでいった。
ラミアは逃れようともがいたが、自らの爪が深く刺さったのが災いして、ガルバの身体に釘付けになっている。
その隙を衝いて、ジェハは考えた。
……どうする?
床に転がったすぐ傍には、グルガンの亡骸があった。生きているうちに知恵の一つも借りておくべきだったかと、ジェハは一瞬だけ後悔した。
だが、ジェハはその亡骸の傍に、一本の杖を発見した。グルガンの杖である。
……これだ!
ジェハは杖を拾って立ち上がり、握りの部分を掴んで引き抜きながらガルバに突進した。
仕込み杖の一閃!
短剣は、ガルバの手首ごと床に落ちた。拾い上げると、岩のようなガルバの手が床に転がる。ジェハの手の中には、短剣だけが残った。
グルガンの剣を捨て、その短剣の柄を握り締める。あの、2匹の蛇が絡み合う、禍々しい形の柄である。
ジェハはそのまま床を蹴った。
踊るように軽やかに、しかし凄まじい速さで身を翻したジェハは、ラミアの背後に回り込む。
背中から、心臓めがけて短剣を突き刺すと、ラミアは金切り声を上げて悶絶した。
のしかかるガルバの体重が、ジェハにも感じられた。
力の限り短剣を押し込むジェハとの間に挟まれて、ラミアは動くこともできない。
しばらくもがいていたラミアはしだいに弱々しく震え始め、やがて両腕をだらりと垂れて、ジェハやガルバと共に横倒しになった。
ジェハは、短剣から手を離して立ち上がった。
床を見下ろすと、リナだったラミアがガルバを背中から抱きしめて横たわっているように見える。
ガルバの目からも、ラミア……いや、リナの目からも、涙が流れていた。
ジェハも泣き出した。
今まで涙を流したことは何度もある。
確か、見世物小屋の座長に襲われたときは涙を流して抵抗した。傭兵となって戦場に出たときは、隠れていた塹壕に煙いぶしをかけられて、涙を流して退却した覚えがある。
だが、泣いたのは生まれて初めてだった。
ジェハは、三つの亡骸をあとにリナの家を出た。
戸口を出ると、村人たちが待ち構えていた。
手に手に得物と松明を持った村人たちの中から、どうなった、という声が聞こえた。
ジェハは答えなかった。ただ、石段の上からガールッタを探した。
村の男がひとり、おそるおそる進み出て石段を登り、ジェハの身体を押しのけて家の中に入った。
しばらく経って出てきたその男は、ジェハの腕を掴んで高々と差し上げ、叫んだ。
「死んだぞ」
松明の炎だけが揺れる森の中に、村人たちの歓声が響き渡った。
ジェハの胸の中に、何かどす黒い塊が膨れ上がりはじめていた。それは次第にジェハの身体を揺すぶり始めた。
実際、ジェハの握り拳は微かに震えていた。やり場のない怒りがこみあげてきていた。何に対して怒っていいのか分からなかった。
何よりも、今、何をすべきなのかが分からなかった。
ただ分かっているのは、「このままで済ませてはいけない」ということだった。
そこへ、松明を掲げた村人たちの間を縫って、ガールッタが新月の闇の中から現れた。
何本もの松明の灯に照らされて右に左に揺れるその顔は、笑っていた。それは、初めて会って薬草を買ったとき、ジェハが渡した金貨を見たときの笑いだった。
ガールッタは、あのときの口調で言った。薬草の効能をまくし立てたときの、あの威勢のいい声だった。
「あんた、アタシの思ったとおりだよ、ただモンじゃないねえ」
そして、村人を見渡して言った。
「たいした旅のお方だよ、よく来てくれたもんじゃないか、ええ?」
村人たちは笑いだした。始めは自信のない、微かな笑い声だった。それが次第に誰かから誰かに伝わり、また、互いに高めあい、波紋のように大きく広がっていった。
その笑いは、ついには一同のものとなった。皆、幸せそうに高らかに笑った。それぞれの笑顔が、松明の灯にちろちろと揺れた。笑う村人たちの群れを、リナの家の中から洩れたランプの光がぼんやりと照らしていた。
そのランプの下には、ラミアと化したリナが死んでいる。そして、自ら命を捨ててかかったガルバとグルガンが死んでいる。
他の村人は、誰も死んではいない。
ジェハは、「深き水底の王」の言葉を思い出した。「あの娘が16歳になったとき、我が血が目覚める。そのとき、あの娘は我が身代わりとなって村の者どもを皆殺しにするだろう」。
また、グルガンの言葉を思い出した。「救ってやろうとすれば、誰かが殺してやるしかない」。
そして、クローヴィスの最後の言葉を思った。「お前があの娘を愛しているなら、宿命から解き放ってやれ」。
……本当に、これでよかったのか?
そのとき、ジェハは自分の体のものではない震えを背中に感じた。
それは、聞いたことのある唸り声だった。
黒太子の剣が鳴り騒いでいるのである。
ジェハはつぶやいた。
「そうかよ」
ジェハの手を差し上げている男が、ジェハに笑顔を向けた。
その男の顔を見ながら、ジェハはつぶやいた。
「そういうことかよ」
ジェハの言葉をどう捉えたのか、男はにっこりと頷いた。
石段の下を見れば、ニコニコ顔で近寄るガールッタがいる。
ジェハは叫んだ。
「それならそれでいい!」
差し上げられた手で男の手首を掴み、腕の一振りで石段の下に投げ落とす。
地面に叩きつけられた男が、ぎゃっと叫んだ。
ジェハを見上げるガールッタの目が、呆然と見開かれた。
その顔面に向かって、石段から飛び降りたジェハが抜き放った黒太子の剣が叩きつけられる。
ガールッタの身体が、一刀の下に唐竹割りにされる。
……やっぱりよく斬れる。
斬った勢いで屈みこんだ地面から立ち上がりながら、ジェハは思った。
黒太子の剣を逆手に持ち替える。
そして、さっき投げ落とした男の心臓に突き刺して引き抜くや、そのまま、新月の闇に揺れる村人たちの顔という顔めがけて斬り込んでいった。
19、
スロガ公爵領で起こった傭兵同士の乱闘事件は、関わったローク男爵側の私兵全てが処刑されて解決された。
その中には、逃走中に警備兵に抵抗して殺された者もあれば、連行された後、裁きにかけられて死刑を宣告された者もあった。
その裁きの中で、アルケン伯爵側の私兵によってローク側の私兵に負傷者があったことも明らかにされた。
領内で騒乱を起こした者は例外なく処刑するというスロガ公爵の厳命により、アルケン伯爵に雇われたグルトフラング傭兵団にも調査が及んだ。
しかし、乱闘に関わったジェハという少年兵は確認できなかった。
団長のグルトフラングは老獪ではあるが狡猾ではなかった。自らスロガ公爵の前に出頭し、ジェハという少年兵が傭兵団の一員であることを認めた上で、今回の戦闘には参加していないことを明言した。スロガ公爵は、その堂々たる態度を称え、該当する兵の処分を一任した。
グルトフラングはジェハの行為を敵前逃亡とみなし、傭兵団の中から数名の暗殺者を募ってジェハを捜索させた。
暗殺団はスロガ公爵の警備兵たちも及ばない働きを見せた。何度も現場に足を運び、近辺の領民から目撃情報を集め、ジェハが「帰らずの森」に逃げ込んだという結論を出した。彼らはジェハを追って「帰らずの森」の中に踏み込んでいったが、そのまま再び戻ることはなかった。
グルトフラング傭兵団の暗殺者は何度も送り込まれた。だが、生還者はなかった。やがて、アルケン伯爵領とローク男爵領の国境争いは何度目かの休戦を迎え、それをきっかけにジェハの捜索も打ち切られた。
そして長い年月が経って、「帰らずの森」に妖怪が出るという噂が立った。この噂は必ず、「友達の友達が、その森から逃げ出してきた子どもたちから聞いたらしい」という前置きで始まる。だが、その「子どもたち」に何があったのか、どこでどうしているのか知る者は誰もいない。
その噂というのはこんな話である。
何でも、森の中の小道をどこまでも行くと、無数の塚がその両端に見えてくるのだという。
その間を歩いていくと、森の中に切妻屋根の小さな2階建ての家が現れる。
そこには色の黒い髭面の小男が棲んでいて、家の前を通り過ぎようとすれば、呼び止めて勝負を挑むのだという。
勝負を受けても拒んでも、生きて帰ることはできない。
男の振るう黒い長剣は、最初の一撃で急所を襲い、相手を絶命させるからである。
噂が本当かどうか、確かめる術はない。男が生きているのかどうかも分からない。
なぜなら、スロガ公爵領からアルケン伯爵領に行くにもローク男爵領に行くにも、「帰らずの森」を迂回する安全な街道が立派に整備され、敢えて危険を冒すこともないからである。
もしかすると、わざわざ道を外れる物好きが何人かいたかもしれないが……
だが、いずれにしても、「帰らずの森」から生きて帰った者がいるという話が聞こえてこないところを見ると、男はまだ、生きているのかもしれない。
(完)
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